戸田城聖の後を継ぎ、創価学会第三代会長となった山本伸一の峻厳な「弟子の道」が綴られている。
日蓮大聖人の仏法のヒューマニズムの光をかかげて、世界を舞台に繰り広げられる民衆凱歌の大河小説。
●著者/池田大作
●出版社/聖教新聞社
●発行年月日/2010年05月03日
●ISBN/9784412014435
●サイズ/B6変型判
●ページ数/432
【目次】
本陣/希望/民衆城/緑野
【各章の概要】
【本陣】
「広布第2章」に入って初めての新年である1973年(昭和48年)「教学の年」が明けた。山本伸一は、「広布第2章」とは仏法を基調とした社会建設の時ととらえ、広宣流布の大闘争を決意する。
この年は別名「青年の年」。伸一は、仏法の多角的な展開を担う、青年たちに強く訴えた。
——師弟の道を歩め。社会に開く“遠心力”が強くなるほど、仏法への“求心力”が必要であり、その中心こそ師弟不二の精神だ、と。
また、伸一が当面の大テーマとしていたのが、本陣・東京の再構築だった。1月に新宿、練馬の友を激励したあと、2月に入ると、まず中野へ。参加した中野の青年たちに、30年間、毎年集うとともに、メンバーで「中野兄弟会」を結成することを提案。
伸一の足跡は、2、3月にかけて、港、渋谷、世田谷、千代田、杉並、目黒、さらに多摩方面の第2東京本部へと及び、地域ごとの特色を大切にした激励を重ねる。ここに「東京革命」の烽火が燃え上がった。
日本の政治・経済の中心である首都・東京で、難攻不落の大城を構築し、世界の立正安国の基盤を築く戦いが、伸一の手で着々と進められていったのである。
【希望】
“教育はわが生涯をかけた事業”と、創価教育に全精魂を注ぐ伸一は、4月11日、大阪・交野市に誕生した創価女子中学・高校(当時)の入学式へ。
交野は、豊かな自然に恵まれ、古くは和歌等にもうたわれたロマンの天地である。伸一は自らこの場所を選び、1969年(昭和44年)に建設計画を発表して以来、最高の教育環境を整えるために、真剣に心を砕いてきた。
関西の学会員も、その伸一の心に応え、用地の草取りなど、喜び勇んで支援してくれた。
そして迎えた入学式。 全国から集まった生徒たちに向かって伸一は、「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことをしない」という信条を培うよう期待を寄せる。
式典終了後の語らいでは、帰りが遅くなる時は、家に電話を入れること、いつでも電話ができるように10円玉を持っておくことなど、具体的なアドバイスを行うのだった。
伸一の限りない期待を強く感じ取った生徒たちも、通学途中に行き交う人々へのあいさつの励行や、最寄りの駅に花瓶と花を贈るなど、学園のよき伝統をつくるために努力を重ねる。こうした行動に、学園生への地域の信頼と共感が広がっていった。
また、伸一は、多忙な行事を縫って学園を訪れ、生徒のなかに飛び込んでいった。
長男の正弘は、創価教育への父の志を受け継ぎ、創価女子学園の教員に。後に、伸一の二男、三男も創価教育に従事していった。
創価女子学園は82年(同57年)、男子生徒を受け入れ、新スタート。女子生徒たちが真剣に取り組んだ「よき伝統」は大きく開花し、日本を代表する人間教育の城となっていく。
【民衆城】
「広布第2章」の大空への飛翔は、全同志の“信心のエンジン”を全開にする以外にない。4月から5月にかけて、伸一は一瞬の機会も逃さず、同志のなかへ飛び込んでいく。
東京・荒川の同志と出会えば、瞬時に励ましの懇談会に。荒川は、57年(同32年)8月、伸一が夏季ブロック指導の最高責任者として、弘教の指揮をとった地であった。その前月、伸一は無実の罪により、大阪で不当逮捕された(大阪事件)。荒川の地は、学会と民衆を苦しめる権力の魔性への、反転攻勢の舞台となったのだ。
4月の本部幹部会では墨田へ。ここもまた、53年(同28年)、伸一が男子部の第1部隊長を務めた時、広布拡大に走り抜いた地だった。その激闘を振り返りながら、民衆勝利の方程式が、感動的に示されていく。
伸一の東京各区の激励は続く。渋谷の後、生まれ故郷の大田へ、文京支部長代理時代に縁の深かった豊島へと、休みなく走った。
5月8日からは欧州へ飛んだ。フランスでは、「第三文明絵画・華展」やパリ大学へ。さらに、「ヨーロッパ会議」を設立する。英国へ渡ると、前年に引き続きトインビー博士と対談。帰国の途次には、経由地のオランダでメンバーを激励。希望の民衆城を築く、伸一の奮闘は続いた。
【緑野】
伸一は、東京に続き、各方面・県の強化の第一歩として福井県へ。福井は空襲、地震、台風など幾度も大災害に見舞われた。その国土の宿命転換のために必要なのは、まず人々の“心の変革”であった。
県幹部総会に出席した伸一は、福井の伝統に新たな光をあてて郷土の誇りを掘り起こし、「福井のルネサンスを!」と力説。学会員こそ地域繁栄の主役との深い自覚を促していったのである。
また席上、伸一は、13年前、夜行列車に乗った伸一に会おうと、深夜に敦賀駅に来たが、対面できなかった同志に励ましの言葉を。終了後には、福井長を務める青年に、指導者の在り方を語る。
伸一の激闘は、妻・峯子が戦時中に疎開していた岐阜県にも。
県幹部会では、「一人立つ」と題した、青年部の創作劇が感動を呼ぶ。“命ある限り戦う”との叫びに、伸一は、これが学会精神だと伝言を。会合では、一人一人の社会での勝利の実証が学会の正義の証明になると訴えた。また岐阜本部では、聖教新聞の記者・通信員に激励を重ねる。
皆の胸中に使命の種子を、勇気の種子を植え続けることが、希望の緑野を広げると確信していた伸一は、群馬県へ。
群馬が“地方の時代”の先駆を切り、広布のモデル県になるよう期待を寄せ、地元の交響楽団で活躍する友を励ます。
さらに茨城に続いて、北海道を訪問。ここでは「広宣流布は北海道から」との指針を贈る。
|